生成AIを信頼しすぎる
生成AI信仰の勘違い について
仕事柄、生成AIに触れる機会が多い。文章、画像、イラスト、映像など、生成AIの表現力は近年飛躍的に進化している。
例えば簡単な指示で文章を書いたり、ネット上の情報をもとに「まるで考えているかのように」的確なアドバイスを返してくれることもある。
だが、「生成AIがすごい!もうモデルも俳優もイラストレーターも要らないな!」というような過剰な期待には、疑問を感じる。
それは単なる“AI信仰”に過ぎないのではないか?
生成AI信仰の勘違い パーツと作品は違う
生成AIによって、デザインや広告制作、テック業界の作業は効率化されている。
SNSでは「数分で犬のアニメが完成!」「高品質な萌えキャラが一発で生成された!」「手描きのスケッチからWEBサイトが完成!」というような投稿が溢れている。
確かにそれは「すごいこと」ではある。でも、それを見せられた消費者の反応は、せいぜい「へぇ、すごいね」で終わる。
それだけでは芸術性も感動も生まれない。生成AIが作るのは、作品の“パーツ”であって、“完成された作品”ではない。
生成AIだけで2時間の感動作や心を震わせる小説は、今のところできない。
AIはクリエイターを追い出すか?
AIが道具として有効であるのは間違いない。しかし、それで宮崎駿監督や尾田栄一郎氏のようなクリエイターが“不要”になるとは思えない。
任天堂が、マリオの新キャラをAIでデザインするだろうか?
AIの限界は「過去のデータに基づく再構成」にある。つまり、みんながAIを使えば使うほど、作品は
どれも“似たり寄ったり”になる危険性を孕んでいる。
そこには「新しさ」や「創造性」がない。
AIはゼロからiPhoneを発明しないし、宇宙の謎を解明しないし、「あなたの波動が視えます」なんてことも言わない。
「笑顔にほんの少し憎しみを込めて」なんて、微妙なニュアンスもまだ理解できない。
つまり、細かくて難しいことは人間にしかできないのだ。
消費者はもう、お腹いっぱい
忘れてはいけないのは、世の中はすでに“コンテンツ過剰”であるということだ。
Netflix、Amazon Prime、ディズニー+、DAZN、Spotify…。
一生かけても見切れない、聴ききれないほどの作品がある。
そこに、さらにAIが量産したコンテンツが加わっても、誰がそれを見るのか?
広告バナーにうんざりしている消費者にとって、新しい何かを届けるには「人の目線」が必要だ。
本当に価値あるものを作るには、やはり人の手と目が欠かせない。
増える仕事もある
生成AIがもたらすのは、“仕事の終わり”ではなく、“仕事の変化”だ。
フェイクニュースやプロパガンダ映像、顔の復元、音声合成…AIの応用範囲は広いが、それをどう使うかは人次第だ。
そして、それをどう「検証」し、「意味づけ」するかという役割は、人間にしかできない。
SNSで「AIがすごすぎる!〇〇の仕事はもう不要!」といった発信をしている人たちのほうが、実は一番危ういかもしれない。
その発信すら、いずれBOTで代替可能だ。
重要なのは、「何ができるか」ではなく、「何を作ったのか」だと思う。
生成AI信仰の勘違い まとめ
生成AIの進化によって、確かに作業は楽になります。
だが、作業が楽になるだけで、成果物の質が変わらないなら、予算は当然削減される。
モデルとカメラマンを雇う代わりに、クリエイターがAIに深夜までプロンプトを打ち込み続ける…。それって本当に合理的ですか?
あるインタビューで、宮崎駿監督は「自分は時代の逆を行くだけ」と語っていた。
ドワンゴのAI映像を見た際には「生命への侮辱」と怒りを表し、鈴木敏夫氏も「で、これで何が作りたいの?」と疑問を呈した。
僕は、AIが道具として進化するほど、人間の仕事の“質”を上げなければならないと感じている。
人手不足の業界では、単純作業をAIに任せることで、人がより責任ある仕事に集中できるはずだ。
「AIでみんなの仕事がなくなる」なんて恐怖ばかりを煽る人や、それに便乗してベーシックインカムを主張する人には注意したいですね。
テクノロジーは中立。
どう使うかは、僕たち人間次第です。
それではまた。