人と比べても徒労に終わる
競走に疲れた あなたへ。ゆとり教育 というのがあった。競争教育の歪みからその反動で、人と比べない、ゆとりのある人格を育もう、
ある小学校では、運動会の駆けっこで全員が手を繋いでゴールする。そんな茶番が繰り広げられていたそうだが、
僕の思うゆとりとは、他者と終わりのない競走をするのを辞め、自分自身との競走に勝つことではないだろうか。
一等賞でもビリ結でも、自分がどれだけ全力を出せたか、以前の自分よりコンマ数秒でも早く走れた、それを認めることがまず大事だと思う。
結局、人と競走して勝つことは、自分に勝つことに置き換えられる。自分に勝っていけば人のことを気にする意識は薄まるしコントロールできる。
競走に疲れた 時は、精一杯の努力をして結果を手放そう
結果にこだわらず、自分のやるべきことに集中する。結果は自分で担保できない、それなら結果に執着するのはよそう。
例えば、会社の事業企画書を、期限までに120%を尽くし、プレゼンに挑んだ。しかし他者のプレゼンが採用されてしまうこともよくあることだ。
自分が努力できることは、企画を考えプレゼンまで準備をすることまでだ、それしかできない。
決めることは、上司や顧客。
決定に関しては自分の努力の及ばないことだ。
落とされた自分の何が悪かったのか?他者より劣っていたのだろうか?
恋愛もそうだろ。
ここまで、頑張れた。
けれど決めるのは相手。
決めてもらえない自分がダメだった。
そんなことを考えても仕方ないこと。次に自分にできることは、前回の自分より良い提案をすること、決してあの人より良い提案ではないのだ。
精一杯努力したら、他人の評価など決定権のない結果は放棄する。
終わりのない、人との比較を辞めて、自分の成長に喜びを感じよう。
自分の決定権を放棄しない
競走があるから、発展がある。
確かにその通り。
しかし、他人と比較し始めると足りない症候群に陥ってしまう。評価基準や自我は他人に向かい、自分に対する、自分の決定権さえも他人に委ねてしまいかねない。
他人の土俵に上がり、他人のルールで勝負をしていないか。
外に目が向かいすぎて、自身の内なる目を無視していないだろうか。
他人との終わりのない比較に疲れた僕の経験
僕は仕事上、どうしてもプレゼンや提案をする機会が多い。
本屋に通っては、次々と新書を購入したり、Webでノウハウを探してみたり、他人の仕事を手当たり次第に見たり。
そうすると、何も手につかなくなった。新しい本は毎月書店に並び、Webを見れば、世界中のあらゆる情報や素晴らしい事例が山のように存在する。
この本の内容よりもっと良い仕事を、この事例よりもっと良い結果を、同僚より差がつく提案を。
取り残されてはいけない。
永遠に終わらない、抱えきれない情報量に僕のエネルギーは奪われ、それがどんなに素晴らしい情報でも、見ることさえ嫌になった。
僕は一度、情報を遮断して、人との比較をやめて、自分の思うままに正直になってみた。
すると、取捨選択ができるようになり、思考もクリアーになり始めた。他人の素晴らしい仕事を見ても、置いていかれる感覚は消え、素直に讃えることができた。
他人と自分の最適解は違う。素晴らしい本だけど自分には当てはまらない。
など単純で当たり前なことだが、自分の手に自分の決定権を取り戻した。他者と自分を切り離すことで人を見る目も変わり始めた。
競走に疲れた時のまとめ
勝たないと意味がないなど語られる。ある意味本当かもしれない。スポーツの試合ではそれがはっきりします。
努力しても、勝たなければ意味がない。しかし他人との優劣を競うレースは99%の人間が敗北者になってしまう勝っても次々に比較対象が現れる終わりのないレース。
今日より明日、来年の自分が成長する、自分自身に勝つことが、一歩一歩。階段を登って行く確実な方法ではないでしょうか。
それではまた。
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