テクノロジー信仰は、ほどほどに

テクノロジーに行動が操作される




テクノロジーの発展と弊害

テクノロジーに行動が操作される ことについて、近年目覚ましい発展を遂げているテクノロジー、スマホのアプリや動画配信、生成型AI、テキスト型AIまで、もちろんいつの時代も同じように便利になったと言われていたが

ここ最近のコンピューターの発展は、多くの人の生活に根差して来ている。しかし喜べることばかりではなく、実は僕達の行動はテクノロジーに知らず知らず操作されていないだろうか。

テクノロジーに行動が操作される

もっとも身近な物の1つがSNS 。多くの人がそれらを能動的に使っていると思い込んでしまっているが、裏で動くアルゴリズムによって、お勧めされるタイムラインは貴方を操作していないだろうか

例えば、偏ったイデオロギーの内容に一旦アクセスすると、その情報の都合の良いことばかりが流れてくる。

例えば、2023年現在ではロシアとウクライナについて、日本の世論は単純にウクライナが善、ロシアが悪と偏った情報が人々の感情を操作しているように見える。テレビの偏向報道も影響ば大きいが。

新型コロナワクチンにしても、厚労省やインフルエンサーの情報など、一度信じた情報があればそれらに都合の良い情報に染められてしまう。

特に日本人は、認知戦に弱いと言われていて、顕著にその傾向が見られる。

その他にも、お掃除ロボットの掃除がしやすいように、家具の配置までテクノロジーに操作され、スマホのバッテリーや電波を気にした行動パターンに、いつのまにか人間の方がテクノロジーに合わせて逆転してしまうことは珍しくない。

テクノロジーは中立、だから使う人で毒にも薬にもなる

多くの人は、テクノロジーを正しいと信じて受け入れる。アルゴリズムは正しいと盲信し、流される情報や商品を無意識に信じたり購入したり見聞きすることは

人々を操作したい人物からしたら、とても都合の良い道具になるだろう。

テクノロジーは中立な物で、有効に使えば人類にとって素晴らしい贈り物となるはずだが、それらの開発または権利を握っている企業、資本家、国家など必ずと言っていいほど毒となる使い方をする

原子エネルギーは核爆弾として、Googleなど検索システムは情報統制の道具に、マイナンバーカードなど一見便利そうだが政治家や利権団体が関わると、これもまたよからぬことになってしまう。

イーロンマスクが買収したTwitter現Xは、情報統制が緩やかになり、使う人によっては、他のメディアでは流れない現地やジャーナリストの一次情報を得られるツールとも言える。ニコニコ動画もそうだろう。使い方次第で毒にも薬にも変わる。

テクノロジーに操作されない為に

僕達は、何か問題があるとテクノロジーに解決の手段を求めがちだ。例えば調べごとは、Google先生やChatGPTで調べればすぐ分かるが、本当にその情報は合っているのか疑問すら思わない。思考停止になっていないだろうか。

第三者の意思が介入していないか?他の様々な意見や情報や生の声を探す、聞く努力をしないといけないのではないか。

例えば、スマートウォッチに運動するように促される前に自身の体調、調子を自分の感覚で意識しておくべきではないだろうか。

SNSのくだらない炎上話題に加わり、一緒に燃料を投下させ、訳の分からない怒りを燃焼させてないで、自分のその意識をもっと自由にしてあげられないだろうか。

テクノロジーに行動が操作される まとめ

僕自身もテクノロジーに操作されているなと思います。SNSを見ても情報がついつい偏っていたり、どうでもいいことにいちいち感情を刺激されたり

なので、SNS を見る頻度を減らしていこうと実際に行動に移しています。

テクノロジーを過信しない、デメリットにも目を向けて本当に自分に必要かどうか見極め、テクノロジーに使われるのではなく自分が選んで使うことが大切ですね。

ニヒリズムとテクノロジーには、そういったことが詳しく書いてあります。難しい本ですが興味ある方はぜひ。

「こんなことはもうやめよう」とメッセージが込められたエリッククラプトンの曲をお聴きください


そのほかの記事もよろしくお願いします。

ご感想は下記のコメント欄からどうぞ。ご記入いただいたメールアドレス等は、コメント投稿時、以外には使用しません。

ニヒリズムとテクノロジー

著:ノーレン・ガーツ


ニーチェが分析していたのはテクノロジーではなく、道徳や宗教とニヒリズムの関係だが、この分析はテクノロジーにも当てはまる。

私たちは、テクノロジーを通じて倫理的な目標を追求している。テクノロジーはユーザーの信仰を育み、ユーザーの献身を引き出している。こうした構図から、テクノロジーにニーチェの哲学・思想が当てはまると確信した。

本書はニーチェの思想に対する新たな解釈を探るものではない。人とテクノロジーの関係について、ニーチェの哲学をヒントに、その優れた批判的視点を養うことを目指したものだ。

この本は学術面でも文化面でも、対象とするグループを特定していない。ニーチェ流に言うと、本書はあらゆる人のための、そして誰のためのものでもない1冊の書である。